昭和47年10月10日 月次祭



 前講に弘道先生がお話を申しておりました。どうもこの頃自分の信心が沈んでおるというような言葉ですね。お互いの信心が沈んではいけません。生き生きとして現れてこなければいけません。御結界についてその事をこんなことで良いだろうかと、反省させて頂いておったら、私の書いておるものが、そこにメモしておるものが、それを見せて頂いておったら、信心を楽しゅうするという事が、そこに書いてあった。これが二三日前の御理解を、ちょっと抜粋して書いたんです。
 私の念じておる、生活意識を簡単に表現するならと。私が何時も心の中にかけておる、何時もその事を祈り念じておる、その事の生活意識。御道の信心は、御神前に額づいておる時だけではない。生活そのもの。いうなら信心そのものが、生活でなからないけん。信心いわゆる即、生活だと言われておることなんです。お互いの信心がどう言うことになっておるか。その生活意識を簡単に表現するなら、ただ信心を楽しんでおると。生活全体が楽しいという事なんですですから。
 いわゆる生活意識を簡単に表現するなら、ただ自分は信心を楽しんでいるという事なんです。教祖様の生きられ方を、愈々追求しながら求めながら、私がこの世に生きてきた、この世に生を受けた意義も生き甲斐もそこにあると、言えると言う様な事を話しております。ですから私共は、この世に生を受けてきておるという事には、そこに意義付けが無からなければ、飲んで食うてちょいでは可笑しいですね、折角生まれてきたのですから。私は億万長者になると言うことにです、いうなら生き甲斐を感じる。
 そこにです例えば意義を感ずるというなら、言う人があっても良いかも知れない。けれども、それが果たして、この世にも残り、あの世にも持って行かれるというものではないという事です。億万長者になったばかりに、子供が乞食をしなければならないと言った。親がそれこそ爪の上に火を灯すような、始末倹約をして貯めた。二代目がそれを使うた。三代目には、乞食をしなければならないような結果になるというのは、栄枯盛衰世の習いだと言うてしまえば、それまでのこと。
 けれども御道の信心はどうでも、初代よりも二代親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代、日まさり月まさり、年まさり、代まさりにおかげを頂いていく道を、教祖金光大神は教えられておるのですから、その道を会得しなければいけません。その道を覚えとかなければなりません。そしてその道をまた伝えておかなければなりません。信心の受け渡しという事です。だから受ける渡すというても、それが本当なものを本当に教祖様が、嘘を仰るとは思われませんから。
 親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代に広がっていくほどしの信心を身に付けておきたい。そういう信心をです、今朝からの御理解に、私が御夢を頂いたのがです。まぁ、粋な年増の女の方がですね、今の上に上げたような粋な髪を結うておられる。それにちょっとキザと思われるように、見事なかんざしをぱっと刺して、まぁ実に粋な姿を御神願に頂いたんです。それから今朝の御理解を頂かせていただいたら。
 「信心して、おかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」と言う教訓に基づいて、おかげを頂いた。信心して、おかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。当然なんだ、当たり前なんだと。ところがです、例えば参った拝んだ一生懸命修行をしたと言うてです。例えば、チンバが立った、メクラが目が開いたと言う様な信心なら、金光様ではなくても、合楽ではなくても頂けるんだと、
 お芝居にある、壷坂霊験記じゃないけれども、御観音様に願を掛けた。そして主人の開眼のおかげを頂いたとか。またお芝居にありますように、いざり勝五郎の場合でもそうです、日頃信ずる神様のその焚き場で、もういよいよ敵をそこに目の前にしながら、反対に、返り討ちに合わなければならないという寸前に、足が立つというような霊験を頂いた。これは、映画、芝居じゃありません。事実の世界にも、いわば信仰の世界には、沢山ある事実であります。
 ですから、それは、金光様の信心じゃなくっても良いんだという事です。そこでです不思議とは言うまじきもの。信心しておかげを受けるという事は、不思議ではないのだと。当たり前なのだと。それは五と五と足せば十になるという、道理ですから、その計算を覚えなければいけないのだ。ところがお互いの場合は、五と五と足しておるはずじゃけれども、お参りもしておるはずじゃけれども、お供えもしておるはずじゃけれども、お取次ぎも頂いてるはずじゃけれども。
 十にならんならんとが、八になったり九になったりしておるとするならば、まぁだまぁだ、こちらの信心の、どこにか間違いがあることを分からせて貰うて、ここを追求しそこに教祖様の生きられ方というものをです、私共が追求して行こうというのである。信心して、みかげのあるを不思議とは言うまじきもの。信心そのものが信心そのものが、育っていかなければならないという事。いうならば神は信心の信に通ずるでしょう。髪を結い上げるという事である。
 ある宗旨宗派などは、ただ髪を結い上げるという事だけで、おかげなんかのことを言うたら、ご利益のようなことは、可笑しいという宗教すら、沢山あります。けれども教祖金光大神の信心は、それを一歩、まぁひとつ向こうの方を極めておられる。和賀心にならせて頂けば、おかげがあると。信心によって髪を結い上げさせて頂く、いや結い上げさせて頂こうと意欲し願うとです、願った時点からおかげが展開してくるというのが、金光様のご信心なのです。和賀心になってしまわなければおかげが頂けない。
 本当に信心とは和賀心を追求することだ。どういう場合であっても、喜びと言う答えの出て行く研究をすることだと。本当にそこに極まったと、例えば私共の信心が、思わせて頂けれるところから、その修行に打ち向かう所から、おかげが現れて来るんです。これは不思議なことです。けれども教祖様はそれを不思議とは言うてはならん、当たり前だと仰っておられる。信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞと。祈りてみかげの無い時は、これぞ不思議なることぞと、次の節には教えておられます。
 祈りてみかげの無い時は、これぞ不思議なことだと。信心しておっておかげの受けられんのは、不思議なことだと。そこで自分の身の、家の周辺と言うものを、投げ出させて頂いてです。長年の信心をさせて頂いておるけれども、ただあん時にはこういう奇跡的なおかげを頂いた。あぁいう不思議なおかげを受けたというだけならばです。大したことは無い。それは、金光様でなくても良い。合楽に通うて来なくっても良い。
 石の地蔵さんでも、この柱一本を目当てにして、拝ませていただいても、一心不乱に拝ませていただくならばです、そこに奇跡を呼ぶ事実はある。それは、和賀心に神がござるから、おかげになるのじゃと仰る。だから、何様かに様という事は要らんのです。だから、そういう信心ではない、信心と言うのは。いわゆる信心である。真心になること、神心にならせて頂くこと。いよいよ神様を信じて疑わないという、そういうものが育っていくという事。それが、髪を結い上げるという事。
 その日その日に髪を結い上げて、結い上げるだけが、自分の心が治まっておる。心がニコニコ、どんな場合でも、されておるというだけの助かりではなくて、そういうおかげを受けたら、おかげがあるというのが、この、かんざしだと思う。私が今日、御神願にいただいたのは、ちょっとキザなぐらいに、例えば、合楽のおかげなんか、ちょっとキザなぐらいというのは、ほんなこっじゃろうかと言うような、本当じゃろうかと思うようなです、体験をここで現しておるでしょう。
 今日も最近まで夫婦で、そこで参って、帰られたという事ですが、ある事業に失敗をした。それはただ、光昭がマルショウの時に、ちょっと係わり合いがあったことから、時々、参って見えておる。飯塚ですか、直方のほうの方なんです。今日お祭りだけ頂いて帰られた。だから私、その方に話すんです。私は今日は久留米に高橋さんに便乗させて頂いて、大祭の時のこざこざした買い物をしに参りました。私でなからなければ分からないものばっかりでございましたから。
 ところが丁度私の目に付いてのが、チャンポン茶碗でしたね。ラーメンなんか食べるシナ茶碗です。シナ茶碗が売っておるのが、しきりに目に付く。だからこれを十客分買うておこうかと。値段も安いしこんな大きい茶碗で百円。十枚千円で買ってきた。そしたら夕食をそのお客さんと一緒にさせてもらう時に、そのどんぶりにまぁだ、符丁のついとると、こう紙の貼ってある。ほぅらちょいと洗いどんしたじゃろかと、私は思うたばってん、まぁ今日は、早速間に合うけんち言うわけじゃったでしょう。
 幸い私のだけじゃったから良かったけれど、こらあんた、符丁のついとる、こりゃ、百円で買ってきたっですよ今日。いやそしたら愛子が、いや中はもう立派に洗うとりますけんでと言いよったけれど、どういう事だったか知らん。(一同笑い)そして、今日は、ちょうど、お供えにですね、いわばチャンポンの玉うどんを、家族中で皆さんが頂いていただくように沢山頂いた。それに併せてです豚肉が来た。もやしが来た蒲鉾が来た、ちくわが来た。さぁ立派なチャンポンが出来ました。
 そこでほんならチャンポン茶碗がなからにゃ、やっぱおかしかち言うとこ。と言うてこれは、私の信心はこうなんだと。まるきり嘘のような話だけれども、確かに私がチャンポン茶碗を買ったという事は、嘘ではなかった。今日はこういう風にして、チャンポンのお供えが来とるけん、どんぶりを買えと仰った訳ではないけれども、何時もこのような事実をです、皆さんに見てもらいながら、このような素晴らしいタイミングの中に、日々を過ごさせていただくのだから、楽しゅうて応えんと言うのです。
 だからそういうおかげだけが楽しいのではなくてです。本当に好きならばです。例えば今日はどこへ芝居を見に行く。今日はもう雨の降るけん、もう行くめちいうごたるとなら芝居が本当に楽しむ人じゃないと思うです。それこそ雨が降ろうが、風が吹こうが、行かにゃおられんというのが、私は本当に芝居を楽しむ人だと思うんです。信心でもそうでしょう。雨が降るから風が吹くからえらい、大儀と思うてはならんと。
 ほらもう歯を喰いしばってじゃなくて、それがむしろ楽しゅうなるところまで、お互いの信心を高めていかなければならんという事。私は今日始めて茶道具と言うものを買いました。あまりに見事だし、握っとって放そうごつなかごとある。それがたったお茶のみ茶碗だけが一万円する。五客分。けれども私は、それを見た途端に握ってみた途端にです。いやぁ金光様がおい出られた時に、これでお茶を差し上げたならなぁと思うたんです。思うたら心が感動してきた。
 これは買わにゃおられんと言うて、買わせて頂くことに致しましたら、千円負けて頂いた。九千円で買わせて頂いた。このくらいばかりの小さい茶飲み茶碗五つなんです。けれどもです私が思う。最近のようであったら、さぁ御本部参拝、御本部参拝、何時ものことながらです。さぁ十日後には記念祭を控えさせて貰うておるので、お互いの心の中に、その記念祭、記念祭と言うのがです。これでよかじゃろかこれでよかじゃろかと、お互い思うておるという事なのですけれども。
 思うたら感動が湧いてくるというほどしの、私は思い方でなからにゃ駄目だと思うんです。記念祭のことを思うたら、じっとしておられん、心が躍ってくる、だけではない。喜びが返ってくる。思うただけじゃいかん。それを本当に、買おうという気になったら、これを金光様に、これでお茶を差し上げたいなぁと。それこそ、お茶道具と言うなら、本当に。先日も、繁雄さんが、あの、道具揃えをしておられました。
 お部屋が沢山出来たから、一部屋一部屋に、それこそ見事なお茶のみ茶碗が、幾通りも幾通りもそれを、ずうっと出してから検査しておられました。と言うほどしにあるのだけれども。そのお茶のみ茶碗は、握ったら、放そうごとないごと良い茶碗なんです。それで、これで金光様にお茶を差し上げたならと思うたら、感動が湧いてきた。こら、買わせていただかなと言うて、買わせていただいた。
そういう思いで、買わせて頂いても、金光様がまぁだご返事を頂いておりませんが、お出でるか、お出でないか分からないという事でもあります。そん時にお互いがガッカリするようであっては、それは真心とは言えないと思うですね。もうそん時は、その時の時点なんです。その時点その時点がです、有難いと思えるから、信心は楽しいのです。これだけ一生懸命なっとるとに、来もしなさらんち。ほんに情けないてんなんてんち言うこっじゃなくてです。それまでの思いを込めるという事が信心なのである。
 それを行ずるという事が信心なのである。だからこそ神様は、感動を以ってお返し下さってあるのですから、もうお返しは済んでおる。おかげは受けておる。そこで金光様が、よし、お出でにならなくってもです。それでガッカリするという事はない。来なされば来なさるがおかげ。来なさらなければ来なさらないが、また合楽としてはおかげだあるという事をです。私はそういう頂き方が出来ることが信心だと思う。
 だからこそ楽しいんだと思う。私は思うておる。それこそ日々がそうでありたいのだけれども、今の合楽には難しいけれども。あの十月の二十日の記念大祭にはです。久留米から、日田のほうからあらゆる、四方八方から集まってくる人達がです。合楽へ合楽へと草木もなびくようにして、その日だけぐらいは、そういうおかげを頂きたい。いうならば流れを変える。高いところから見ておったら、ずうっと車が沢山おるけれども、それがずうっと合楽へ合楽へと言うて通うて来るというような。
 福岡にユニードが出来た時に、岩田屋のデパートの上から眺めよったげならね。今までは、もう全然あちらの、元の松屋の方ですから、人も車も行かないのに、その日だけはね、全部人がそちらのほうへ流れて行ったという事です。いや流れを変えるほどしの商策であった。私は合楽の何時もがそうでありたい。こちらへ向こうて来るのは、みんな合楽さん行きだと。けれどもせめて五年の記念祭だけぐらいは、せめて御大祭の時間の前後だけぐらいは、それこそ上から見ておったら。
 みんなが合楽へ合楽へと、合楽へ流れが変わってくるほどしのおかげを頂きたいと願う。皆さんも願わなきゃいけません。そのためには、今までのような信心であったり、大祭の時に、一家中で参ったから、それで良いと言うのじゃなくて、もう自分の関係のある限りの人達にです。どうぞ一つお参りをしてください。合楽の御比礼に浴して下さい。そしてそれを境に信心がいただけ、おかげ頂けれるようなおかげが頂けたら有難いのだ。私は、そういう祈りとか願いとか、思うたら、これがわくわくしてくる。
 感動が湧いてくるというほどしの信心を身に付けて行きたいまた、記念祭には、そういう思いを、一つ持ちたいと思うのです。いよいよ自分のいわば、手元のところを検討してみて果たして記念祭に、どのくらいの熱情が燃やされておるであろうかと。そういう事がです。私は、髪を結い上げることだと思うのです。信心を結い上げることなんです。それに例えばかんざしが加えられる。言うならリボンがかかっておる。だからその結い上げた髪に、そういうこれがおかげである。
 髪を結い上げるという事が信心である。信心が中心信心を結い上げるから、それこそ信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞであり。祈りてみかげのない時は、これぞ不思議なる事ぞと仰るように、当然のおかげ。いわば髪を結い上げるならばです、当然のおかげとしてかんざしは、神様が刺して下さるというのがおかげ。リボンは神様がしてくださる。だからその髪がいやぁ素晴らしい、なんとも言えん、いわば髪形というものが出来るのです。そういうおかげを頂きたいと思うですね。
   どうぞ。